日本の古城のロケーション






登録している古城 基礎情報

根室半島チャシ跡群 不明年
江戸時代
アイヌ

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
チャシとはアイヌ族の建築物。戦国時代~江戸時代に作られたと考えられている。用途ははっきり分かっていない。和人の江戸時代の記録によれば「砦」とされていたが、当時の和人はアイヌと戦闘状態であったため、チャシ本来の目的かどうか分からない。北海道内に700ものチャシが確認されており、根室半島にある24ヵ所は史跡となっている
五稜郭 1866年
江戸時代
江戸幕府

画像出所:wikipedia(GFDL-no-disclaimers 撮影者:京浜にけ)
箱館開港に伴い、徳川家定の命により築造された。欧州の近代要塞を真似て建設されたが、星型の城塞は欧州でも当時すでに旧式化したスタイルで防御力は限られたものだった。戊辰戦争最後の舞台となった。
松前城 1606年
江戸時代
松前崇広

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
最後期の日本式城郭。松前家が、1600年(慶長5年)から慶長11年にかけて陣屋を築いた
弘前城 1611年
江戸時代
津軽信枚

画像出所:wikipedia(GFDL 撮影者:Si-take.)
最初の天守は弘前藩2代藩主津軽信枚により建てられた5重の建物。内部6階と推定される建築は僅か4万7000石の大名としては破格の巨大さだった。1903年より周囲に桜の植樹が行われ、満開時期がゴールデンウィークと重なる桜の名所として有名。
根城 1334年
室町時代
南部師行

画像出所:wikipedia(CC 2.5 撮影者:house-nasu)
南朝方に属する武将・北畠顕家に同行し陸奥国に下向し南部師行が構えた城。南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けた。師行は大光寺合戦などで戦功を立て津軽地方にも勢力を伸長した
盛岡城 1598年
安土・桃山時代
南部信直

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
盛岡藩南部氏の居城。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地で、現在の盛岡市中心部に築城された連郭式平山城である。
多賀城 724年
奈良時代
大和朝廷(大野東人?)

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:Saigen Jiro)
律令時代に、陸奥国に設置された城。大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた塩釜丘陵上に設置した
青葉城 1601年
安土・桃山時代
伊達政宗

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:Kinori)
慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。約2万坪で、徳川家康の江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城である
久保田城 1604年
江戸時代
佐竹義宣

画像出所:wikipedia(CC継承 4.0 撮影者:掬茶)
久保田藩主佐竹氏の居城。雄物川の支流仁別川左岸、程野村窪田にある神明山(標高40m)に築かれた平山城
山形城 1356年
室町時代
斯波兼頼

画像出所:wikipedia(CC継承 2.5 撮影者:kamoseiro)
斯波兼頼が羽州探題として山形に入部。初期の山形城が築城される。のち、最上義光が城郭を拡大、城下町を整備。最上氏転封後、鳥居忠政により、改修がなされる。
二本松城 1414年
室町時代
畠山満泰

画像出所:wikipedia(CC BY-SA 2.1 jp 撮影者:baku13)
麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城。畠山氏が築城した後、畠山氏を滅ぼした伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏と所有者が変わっていった
会津若松城 1384年
室町時代
蘆名直盛

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:Roha:ja (talk))
芦名氏が築城した後、芦名氏を滅ぼした伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏と所有者が変わっていった。幕末、戊辰戦争の際には1ヶ月もの間持ちこたえた
白河小峰城 1340年
室町時代
結城親朝

画像出所:wikipedia(CC BY-SA 2.1 jp 撮影者:baku13)
東北では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城とともに東北三名城のひとつ。幕末、戊辰戦争では激しい攻防の舞台となり、大半を焼失し落城した。
水戸城 1190年
平安時代
馬場資幹

画像出所:wikipedia(CC継承 2.5 撮影者:Monado)
徳川御三家の一つ「水戸徳川家」の居城として有名だが、築城は古く平安末期頃。鎌倉期は馬場氏、室町期は江戸氏、戦国期は佐竹氏が所有していた。
鑁阿寺 1196年
鎌倉時代
足利義兼

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
鑁阿寺はもともとは足利氏の館であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代の武士館の面影が残されている。
箕輪城 1512年
戦国時代
長野業尚

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:デジタルカメラ)
戦国時代中期、長野業尚によって築かれたが、長野氏が武田信玄に滅ぼされ、武田氏が織田信長に滅ぼされた後、北条氏が接収した。小田原征伐の後、廃城になった
金山城 1469年
戦国時代
岩松家純

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
新田一族であった岩松家純によって築城される。以後、由良氏、北条氏と所有者が代わった。北条氏時代に上杉謙信の攻撃を退けた堅固な城。小田原征伐の際攻撃を受けて落城、こののち廃城
鉢形城 1476年
戦国時代
長尾景春

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Taketarou)
関東管領山内上杉氏の家臣 長尾景春の築城とされる。その後、北条氏邦によって整備拡張され北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、北条氏滅亡とともに廃城となった。
川越城 1457年
室町時代
太田道灌

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Ocdp)
扇谷上杉氏が川越城を築城させた。後に、北条氏に攻め取られたが、奪還のため扇谷上杉・足利両軍が川越城を囲んだ。救援に来た北条氏康は10倍近い敵を夜襲で破り川越城を死守。小田原征伐後は小江戸と称される美しい城下町を形成した。
佐倉城 1555年
戦国時代
鹿島親幹

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:EXECUTOR)
戦国時代、千葉親胤が築城させたが、親胤が暗殺されたために中止された。1610年に、土井利勝によって築城が再開されついに完成した。
江戸城 1457年
室町時代
太田道灌

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
現在の東京の中心だが、元は扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城で、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城・皇居となった
八王子城 1587年
安土桃山時代
北条氏照

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
北条氏の本城、小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点。縄張りは、東西約3km・南北約2~3kmの広大な範囲に及んだ。小田原征伐の際、上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ全滅。廃城となった。
小田原城 1417年
室町時代
大森頼春

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
駿河の国の大森氏が築城したが、北条早雲がこれを奪取。3代当主北条氏康の代には難攻不落といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。小田原征伐後は、徳川家康の所領となり、臣下の大久保氏の居城となった。
躑躅ヶ崎館 1594年
安土桃山時代
武田信虎

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:前田左衛門佐)
戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。武田信虎、信玄、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能した。
甲府城 1583年
安土桃山時代
徳川家康

画像出所:wikipedia(GFDL)
甲斐の国は、もともと武田氏が躑躅ヶ崎館を中心とする城下町を造成していたが、武田氏滅亡後に徳川氏や豊臣系大名が甲府城を築城して新たに甲府城下町を整備した。
松代城 1560年
戦国時代
武田信玄

画像出所:wikipedia(CC BY-SA 2.1 jp 撮影者:baku13)
甲斐国の武田信玄が信濃侵攻を開始し、越後国の上杉謙信と川中島の戦いへと発展した時期、同城は、川中島地域の拠点城郭として、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城された。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである
上田城 1583年
安土桃山時代
真田昌幸

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者: Qurren (talk) Taken)
上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により築城された平城。真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名。
小諸城 1487年
戦国時代
大井光忠

画像出所:wikipedia(CC 2.5 撮影者:663highland)
元々は、大井光忠によって築城されたとみられる。戦国時代、武田信玄の東信州経営のため、1554年に改修された。さらに江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修された。
松本城 1504年
戦国時代
小笠原長棟

画像出所:wikipedia(CC 2.5 撮影者:663highland)
信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして築城されたのが始まりとされる。後に武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して松本城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復した
高遠城 不明年
不明
不明

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていたが、武田の手に落ちた。武田信玄は信濃への進出拠点として山本勘助等に命じ大規模な改築を行った。その後、織田・徳川の武田征伐の際、信長の長男信忠の5万の軍に囲まれ落城した。
新発田城 不明年
鎌倉時代
新発田氏

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
鎌倉時代初期の新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、1581年、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こしたが、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡した。
春日山城 不明年
不明
上杉氏

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
南北朝時代に越後国守護上杉氏が築城したのが始まりとされる。難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信、上杉景勝の四代の居城となった。しかし、上杉景勝が去った後、越後を支配した堀氏は、政治に不便であるとして、1607年にに移転したため、春日山城は廃城となった
高岡城 1609年
江戸時代
前田利長

画像出所:wikipedia(GFDL 撮影者:kahusi (會話))
加賀藩主であった前田利長が、隠居城として使っていた富山城が火災で焼失したため、建築した城。しかし1614年5月20日には利長は死去したため、隠居城として使われたのはごく短期間であった。その翌年には一国一城令により高岡城は廃城となった
七尾城 1428年
室町時代
畠山満慶

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
能登国守護の畠山満慶が築いたと思われ150年間畠山氏の拠点となった。山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称された。1577年上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。のち織田氏に領有され城主として前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく1589年に廃城となった
金沢城 1580年
安土桃山時代
佐久間盛政

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
この地は、元々加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊」であった。織田信長が一揆を攻め滅ぼし、跡地に金沢城を築いた。後に前田利家領有となり、利家が改修工事を進めた結果現在の形になった
丸岡城 1576年
安土桃山時代
柴田勝豊

画像出所:wikipedia(CC BY-SA 2.1 jp 撮影者:baku13)
柴田勝家の甥の勝豊により築城された。勝家が豊臣秀吉によって滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となった。関ヶ原の戦いの後、本多成重が丸岡城を拠点に丸岡藩として独立した。1695年お家騒動が起こり、本多家は改易となった。代わって有馬清純が入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。
一乗谷城 不明年
室町時代
朝倉氏

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
朝倉氏の拠点で、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、地域全体が広大な要塞群であった。応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため華やかな京文化が開花した。最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。1573年越前に侵攻した織田信長の軍勢により灰塵に帰した。
岩村城 1221年
鎌倉時代
遠山景朝

画像出所:wikipedia(GFDL)
本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置している。遠山景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には砦あるいは城館的なものであった。戦国時代は、織田・徳川 対 武田の抗争の最前線となり、戦国時代末期に本格的な城山が構築されていった。
岐阜城 1201年
鎌倉時代
二階堂行政

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Alpsdake)
鎌倉時代に砦が築かれたが一度廃城となる。15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永が、この城を修復して居城とする。その後、斎藤道三が大規模な改修を行い、美濃支配の拠点とする。斎藤道三を討ち取った斎藤義龍の時代、織田信長のたびたびの攻撃を跳ね返した堅固な城であったが、子の龍興の時代、ついに信長に奪われ、信長の全国制覇の拠点となった。
山中城 1558年
戦国時代
北条氏康

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:Mocchy)
北条氏にとって小田原の西の防衛を担う拠点で、城は東海道に面して作られていた。北条征伐の際、豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、北条氏勝ら4千の兵は奮戦し、豊臣方は多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の武将や城兵の多くが討死した。征伐後、廃城になった。
駿府城 不明年
戦国時代
今川氏

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:Saigen Jiro)
室町時代、駿河守護に任じられた今川氏により今川館が築かれたが、武田氏の駿河侵攻により一度城館は失われた。武田氏が、織田・徳川勢に滅ぼされると、徳川家康の手で、近代城郭として築城しなおされた。その後、将軍職を秀忠に譲った徳川家康は、駿府に隠居した。この際に、更に大改修が行われ3重の堀を持つ輪郭式平城になった。
掛川城 不明年
戦国時代
朝比奈泰煕

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
駿河の守護大名今川義忠が、朝比奈泰煕に命じて築城した。桶狭間の合戦の後、今川家は、武田信玄と徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、徳川家康の手に落ちた。その後、家康が関東に移ると、山内一豊が入城した。山内一豊が掛川城を大きく拡張した。関ヶ原後、山内一豊は土佐に移り、江戸期には多くの譜代大名が入った。
犬山城 1469年
戦国時代
織田広近

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:ThorstenS)
織田信長の生まれる70年程前に織田広近が砦を建築したのが始まりとされる。その後、織田家の一族・家来が保有していた。信長が本能寺の変で倒れた際は、織田信雄の配下の中川定成が城主をしていたが、突如、池田恒興によって奪われる。これが小牧長久手の戦の引き金になった。江戸期には、成瀬家9代の居城となった。
名古屋城 1609年
江戸時代
徳川家康

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Miya.m)
織田信長誕生の城とされる那古野城は、信長の時代に一旦廃城となっていた。この場所に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したのが名古屋城である。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されたが、太平洋戦争の際に米軍の空襲を受け、焼失したものを再度復興させたものである。
岡崎城 1452年
室町時代
西郷稠頼・頼嗣

画像出所:wikipedia(CC継承 4.0 撮影者:Bariston)
岡崎城は、三河国仁木氏の守護代 西郷稠頼が築城したもの。それを、徳川家康の祖母の松平清康が奪い取り拡張した。ここで徳川家康は生まれた。家康が今川氏に人質に出されている間、今川氏の城代が置かれていたが、今川義元が桶狭間に戦死した後、徳川家康が岡崎城を接収し独立した。戦国国時代から安土桃山時代には徳川氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。
長篠城 1508年
戦国時代
菅沼元成

画像出所:wikipedia(GFDL)
菅沼元成が築城。菅沼氏は、徳川家康に服属していたが、城主の菅沼正貞は、武田方に付いた。信玄の急病により、武田軍は本国へ撤退すると再度、徳川家康によって攻め奪られる。以後、家康によって武田軍の城が拡張される。1575年、武田勝頼は2万5千の兵を率いて長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。織田・徳川連合軍が救援に来るまで、奥平信昌は僅か500人の手勢で守り抜いたが、損傷が激しく、長篠の戦いの後廃城となった。
伊賀上野城 1585年
安土桃山時代
滝川雄利

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:T@ka)
織田信雄の家臣である滝川雄利が平楽寺の跡に砦を築いた。その後1611年、豊臣攻めに備え、徳川家康の命を受けて藤堂高虎が拡張した。しかし、大坂の役によってた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。
松阪城 1588年
安土桃山時代
蒲生氏郷

画像出所:wikipedia(CC 3.0 撮影者:ブレイズマン)
蒲生氏郷が伊勢国に入った際、城下町の発展のため1588年に建設されたのが、今の松坂城である。蒲生氏郷が会津に転封されると、安土桃山時代には、城主が何人か入れ変わった。江戸期には、紀州徳川家の藩領の一部として、城代がおかれた。
小谷城 1516年
戦国時代
浅井亮政

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:ブレイズマン)
浅井亮政が築城した後、3代にわたって浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られた。織田氏と結んでいた浅井氏が、織田氏に対し反抗してから、4年間織田信長に攻められ、落城した。その後、北近江の拠点は当時、羽柴秀吉が居城としていた長浜城に移されたために廃城となった。
彦根城 1622年
江戸時代
井伊直継

画像出所:wikipedia(CC BY 2.1 jp)
徳川四天王の一人・井伊直政は、関ヶ原の戦いの後、近江国北東部に封ぜられ石田三成の居城であった佐和山城に入城した。直政は居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年に死去した。 その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年琵琶湖に浮かぶ彦根山に彦根城を築城した。その後、幕末まで彦根藩の居城となった。
安土城 1576年
安土桃山時代
織田信長

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
織田信長の天下布武の拠点として 1576年に築城された。大型の天守を初めて持つ威容を誇ったが、1582年の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後、焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみ。織田信長の性格および、各地に軍団を派遣するだけ、という当時の織田家の強勢を反映し、城まで石段が続き、「防御」という概念が全くない城であったという。
観音寺城 不明年
戦国時代
六角氏頼

画像出所:wikipedia(GFDL-no-disclaimers)
正確な築城年は定かではない。南北朝時代には築かれていたと考えられている。応仁の乱の際には3度も、観音寺城の攻城戦が展開される。戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対した。信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ開城した。そのまま廃城になったものと考えられる。
二条城 1603年
江戸時代
徳川家康

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Wiiii)
「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城、室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城、織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」、徳川家康が京の滞在中の宿所として作った城である。江戸期には、城代が置かれていたが、火災や地震で老朽化していった。幕末、第14代将軍・家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われた。
大阪城 1583年
安土桃山時代
豊臣秀吉

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
石山本願寺の跡地に1583年豊臣秀吉が築城した。大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。落城で灰燼に帰した大坂城は、松平忠明に与えられたが、1619年に幕府直轄領に編入された。1620年から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年に完成した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665年には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。江戸末期、鳥羽・伏見の戦いの混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。
千早城 1332年
鎌倉時代
楠木正成

画像出所:wikipedia(GFDL)
千早城は、大和国と南河内国を結ぶ最短ルート交通の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山の近くに築かれた山城。城は四方の殆どを深いに谷に囲まれ、城の背後が金剛山に続く要害の地である。鎌倉時代末期、北条氏の大軍を引き寄せ、守り通した千早城攻防戦の舞台となった。楠木氏がその後も所有していたが、室町時代になり北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城した。
竹田城 1431年
室町時代
山名宗全

画像出所:wikipedia(CC継承 4.0 撮影者:Wae35244)
円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。江戸時代に入る前には廃城になっていた。
篠山城 1609年
江戸時代
徳川家康

画像出所:wikipedia(CC BY 2.1 jp)
1609年徳川家康は、松平康重を丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことにで、豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。江戸期は、松平三家八代、青山家六代の居城となっていた。明治に入り取り壊された。
明石城 1618年
江戸時代
小笠原忠真

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
1617年明石藩主となった小笠原忠真は、譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、徳川秀忠より築城命令された。その後明治期まで、17代にわたる城主の居城となったが、1874年廃城令により廃城となる。
姫路城 1346年
室町時代
赤松貞範

画像出所:wikipedia(CC継承 4.0 撮影者:Terumasa)
江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は姫路城跡として国の特別史跡に指定されている。
赤穂城 不明年
戦国時代
岡光広

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
1466年岡光広が加里屋城を築城。その後、1613年 赤穂は池田輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営される。1615年 忠継の弟・政綱が3万5,000石を与えられ赤穂藩が立藩し御殿が造営された。1873年 廃城令により廃城となるが、1955年大手門が再建される。
高取城 1332年
鎌倉時代
越智邦澄

画像出所:wikipedia(CC 3.0)
奈良県高市郡高取町高取にあった。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。南北朝時代に越智邦澄が築城したのが始まりと伝えられている。
和歌山城 1605年
江戸時代
豊臣秀長

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Oilstreet (talk))
もとは、豊臣秀吉が奉行となって築城した城である。地名はもともと「若山」と呼ばれていたが、この際に和歌山と改められている。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城となった。
鳥取城 不明年
戦国時代
但馬山名氏か?

画像出所:wikipedia(CC 2.5 撮影者:663highland)
天文年間に始めて築城されたと考えられている。山陰地方の勢力争いの中心となった城で、山名氏、尼子氏、毛利氏と城主が代わったのち、秀吉による鳥取城攻略戦で兵糧攻めにあい織田氏の勢力下に入った。戦国期を通じて都合6度も落城した珍しい城である。江戸期は池田氏の所領となりそのまま明治維新を迎えている。
松江城 1611年
江戸時代
堀尾忠氏

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
江戸期に建てられた平山城で、松江藩の藩庁となった。現在でも江戸時代初期建造の天守が現存する。
月山富田城 1185年
鎌倉時代
佐々木義清か

画像出所:wikipedia(CC継承 2.5 撮影者:monado)
1441年美作国の守護大名であった山名教清が、現在の津山城のある丘陵(鶴山)に鶴山城を築かせたのが最初であるが、応仁の乱で山名氏が衰退し一度廃城となる。1603年森忠政が津山藩を立藩。同年、現在見られる津山城の築城が開始された。
津和野城 1295年
鎌倉時代
吉見頼行

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
鎌倉時代、元寇の翌年の1282年、沿岸防備のため着任した地頭の吉見頼行が最初に築城した。戦国期には、三本松城の戦いとよばれる100日以上に及ぶ籠城戦が生じた。山の尾根・支尾根に多数の曲輪を持つ典型的な中世山城である。
津山城 不明年
室町時代
山名忠政

画像出所:wikipedia(GFDL)
1441年美作国の守護大名であった山名教清が、現在の津山城のある丘陵(鶴山)に鶴山城を築かせたのが最初であるが、応仁の乱で山名氏が衰退し一度廃城となる。1603年森忠政が津山藩を立藩。同年、現在見られる津山城の築城が開始された。
備中松山城 1240年
鎌倉時代
秋葉重信

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
愛媛県松山市にあった松山城との混同を避けるために「備中松山城」と呼ばれる。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。1240年秋庭三郎重信が備中有漢郷の地頭となり大松山に最初の城を築いたのが始まり
鬼ノ城 不明年
飛鳥時代
大和朝廷?

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
鬼ノ城(きのじょう)は、日本の古代山城である。大和朝廷は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、本土の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いた。鬼ノ城は発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている。平安期以降は使われていたという記録はない。
岡山城 不明年
室町時代
上神高直?

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Reggaeman)
南北朝時代、名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。戦国時代に、宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。
福山城 1622年
江戸時代
水野勝成

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福山城は江戸期の1615年の一国一城令発布後の1622年に竣工した城である。大規模な新規築城による近世城郭では最後の例となった城である。
郡山城 1336年
室町時代
毛利時親

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:1467jp)
建武3年(1336年)吉田荘の地頭職として毛利時親が下向し、砦程度の小規模な城が毛利氏によって築かれたと推定されている。その後、毛利家12代目にあたる毛利元就が登場する1523年までは大きな変化はなかった。元就は戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、1540年から翌年正月まで続いた尼子氏との吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった。この戦いでは最終的に尼子晴久率いる3万の大軍を撃退した。その後毛利家拡大の中心地となったが、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、1591年に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え廃城となった。
広島城 1589年
安土桃山時代
毛利輝元

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:Hiroaki Kikuchi)
1589年、毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである
岩国城 1601年
安土桃山時代
吉川広家

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:user:Mkill)
横山城は本丸を中心として南西に二ノ丸、北東に北ノ丸、水の手などの曲輪が配置された。麓には、「御土居」が築かれた。城下町と城の間の錦川には錦帯橋が架けられ、美しい景観となっている。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。 現在、吉香公園として整備され、横山山頂には再建された天守閣がある。
萩城 1604年
江戸時代
毛利輝元

画像出所:wikipedia(CC継承 2.0)
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として1604年に築いた城。海に突き出した岬の先に築かれた特異な構造をしている。
徳島城 1585年
安土桃山時代
蜂須賀家政

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Reggaeman)
室町時代の1385年(に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わったが、1582年には長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。1585年、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政が阿波1国18万6000石を賜った。入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
高松城 1590年
安土桃山時代
生駒親正

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。
丸亀城 不明年
室町時代
奈良元安

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Toto-tarou)
丸亀城は別名亀山城とよばれ、もとは室町時代初期 管領・細川頼之重臣の奈良元安が亀山に砦を築く。1597年 豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。1602年ほぼ現在の城郭が完成した
今治城 1602年
安土桃山時代
藤堂高虎

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:ぺ有家音)
1602年、藤堂高虎によって築城開始された江戸期の城で、1604年に完成した。三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。
湯築城 不明年
鎌倉時代
河野氏、小早川氏、福島氏

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Reggaeman)
1535年頃、河野通直によって外堀が造られたとされる。 1585年、四国征伐をめざす羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻して湯築城の河野氏は約1ヶ月の篭城の後に降伏した。城に留まっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。1587年、福島正則が城主となるが、国分山城に居城を移したため廃城となった。
松山城 1602年
安土桃山時代
加藤嘉明

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:Urashimataro)
加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、平山城の築城に着手した。1603年嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。しかし嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知が24万石の松山藩主になる。蒲生家が断絶の後、松平定行が15万石の藩主となり、明治期まで松平藩であった。大天守が現存している12の城の一つである。
大洲城 1331年
鎌倉時代
宇都宮豊房

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。その後江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。
宇和島城 941年
平安時代
橘遠保

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:ぺ有家音)
1236年 西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、現在の城山に砦程度の城を築く。1601年に藤堂高虎の手で現在の城郭が完成、宇和島城と名付けられる。1615年に伊達政宗の子である秀宗が入城。その後明治期まで仙台伊達藩の分家として宇和島伊達藩として残る。
高知城 1603年
江戸時代
山内一豊

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Taisyo)
高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。 戦国時代以前には大高坂山城が築かれていた。現在の城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、土佐藩庁が置かれた。高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られている。
福岡城 1601年
安土桃山時代
黒田長政

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Pontafon)
江戸時代初期、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政が、博多を望む警固村福崎の丘陵地に築いた。それ以降は明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。
大野城 不明年
飛鳥時代
大和朝廷

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:Heartoftheworld)
福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)に築かれた、日本の古代山城(朝鮮式山城)
名護屋城 1591年
安土桃山時代
豊臣秀吉

画像出所:wikipedia(GFDL)
豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際の日本軍の拠点として築かれた。秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられている
吉野ヶ里 不明年
弥生時代
不明

画像出所:wikipedia(CC0 撮影者:Saigen Jiro)
およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られる。国の特別史跡に指定されている。
佐賀城 1602年
安土桃山時代
鍋島直茂・勝茂

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
佐賀城は、江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である。幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。
平戸城 1599年
安土桃山時代
松浦鎮信

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされた。平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭である。
島原城 1624年
江戸時代
松倉重政

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。成立当時の領主である松倉氏の知行はわずか4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。普請工事は困難であったとされ、島原の乱を引き起こす一因となった。 明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
熊本城 不明年
戦国時代
出田秀信

画像出所:wikipedia(CC 2.5 撮影者:663highland)
加藤清正が改築した平山城で、加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城であった。その後、西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年の再建である。2016年4月の熊本地震の際に、現存石垣をはじめ宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元・復興建築が被災した
人吉城 不明年
鎌倉時代
相良長頼

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
熊本県人吉市麓町にある平山城。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年にわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。
大分府内城 1597年
安土桃山時代
福原直高

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。 江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。
岡城 1185年
鎌倉時代
緒方惟義

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:As6673)
伝承では、1185年に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その後南北朝時代の建武元年に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。
飫肥城 不明年
戦国時代
土持氏

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン 撮影者:ja:User:Sanjo)
飫肥城(おびじょう)は土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられている。室町時代末期の1458年、島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて部下を入城させた。しかし、秀吉の島津征伐で伊東氏がこの地を獲得。その後明治期まで伊東氏の持ち物となった
鹿児島城 1602年
安土桃山時代
島津家久

画像出所:wikipedia(パブリックドメイン)
1601年に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。災害の多い地域でシロアリ被害が多く、幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われたが1874年(明治7年)に焼失した後に再建されることはなかった
今帰仁城 不明年
鎌倉時代
湧川按司か

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0 撮影者:CEphoto, Uwe Aranas)
今帰仁城(なきじんぐすく)は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、攻撃の第一目標となった。
中城城 不明年
戦国時代
先中城按司?

画像出所:wikipedia(CC 2.5)
中城城(なかぐすくじょう)は、15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。築城の時期は不明。江戸期は薩摩藩の番所、明治期は役場として利用されていた。沖縄戦の被害も少なく石積みの形が良好に残っている
首里城 不明年
戦国時代
不明

画像出所:wikipedia(CC 2.5 撮影者:663highland)
琉球王朝の王城であった。1945年の沖縄戦と戦後により完全に破壊され、城壁や建物の基礎などの一部が残った。本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。