岩手県の城郭と古戦場


衣川の戦い

源義経は、衣川の戦いにより、妻子とともに自害しました。現在、義経堂がある高館は、義経最期の地です。

高館は、奥州藤原氏初代清衡の時代から、要害の地とされていました。兄・頼朝に追われ、平泉に落ち延びた源義経は、藤原秀衡から、この高館に居館を与えられました。しかし、秀衡はやがて病死していまいます。秀衡は、死に臨んで子の泰衡に、「源義経を中心に鎌倉幕府に立ち向かえ」と遺言しましたが、1189年4月30日、頼朝の圧力に耐えかねた泰衡の急襲に遭い自害します。義経という戦巧者が居なくなったことから、源頼朝は不安なく藤原氏に軍を向け、藤原泰衡を滅ぼし、藤原氏は滅亡します。藤原氏には皮肉な結末でした。

高館の頂上には、1683年、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。


義経堂


宮古湾海戦


明治政府側「甲鉄」に接舷する幕府側「回天」




宮古湾海戦の「回天」進路


榎本武明ら旧幕府軍は、1868年、艦隊により北海道に逃れる際、宮古湾に停泊しました。宮古湾は大型艦隊の停泊には十分な条件を備えていることと、宮古湾以外には、この付近に良い条件を備えた港がないことから、旧幕府軍は、明治政府艦隊が北海道に迫る時、必ず宮古湾に停泊すると確信します。

はたして、明治政府海軍が迫って来るという情報を得た旧幕府軍は、宮古湾を奇襲攻撃する決断をしました。

明治政府海軍の中には、当時世界最強で、全身鋼鉄で覆われた「甲鉄」と呼ばれる戦艦がいました。アメリカ南北戦争のために建造された艦ですが、南北戦争が終わったため米国から払い下げてもらった艦です。旧幕府軍はこれを恐れ、接舷斬り込み攻撃で奪取してしまう計画を立てました。フランス語でアボルダージュと呼ばれる攻撃手法です。この艦隊の中には、新撰組副長だった土方歳三なども乗っています。斬り込みのために生まれてきたような男です。

結局、接舷までは成功しましたが、旧幕府側戦艦の回天が甲鉄に乗り上げる形になってしまい、3mもの差が出来てしまい、数名しか斬りこめなかったと言われています。30分ほどの戦いの後、回天は撤退を決断し、函館に逃れることに成功しました。

失敗ではありましたが、旧幕府側の大胆不敵な行動には感服させられます。明治政府海軍には、春日という艦に、若い東郷平八郎が乗艦していました。この回天による奇襲の衝撃を、「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたといわれています。


見所


源義経の最期の地、平泉付近は世界遺産にも登録されています。義経堂、中尊寺金色堂、毛越寺など、旧跡が集中しています。

東北自動車道の平泉前沢で降り、中尊寺、義経堂、毛越寺と回っていくコースか、東北自動車道の一関で降り、毛越寺、義経堂、中尊寺と回っていくコースになるでしょう。

中尊寺金色堂


毛越寺


平泉の見どころ


平泉から、東北自動車道で、北に40分ほど行くと、岩手県最高の温泉、花巻温泉があります。古城や古戦場とは関係ありませんが、個人的には大好きな、宮沢賢治記念館も、花巻市にあります。

花巻温泉

宮沢賢治記念館


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おすすめの宿


花巻温泉 ホテル紅葉館

岩手に行くなら、まず花巻温泉ですが、ここは花巻温泉一番人気のホテルです。15種類以上の季節の串揚げ、ステーキ、炭火焼等のコーナーが充実の「和洋中旬彩バイキング」が人気。隣接ホテルの「ひのき露天風呂」も楽しめます。




いつくし園

平泉から南西10km にある名勝厳美渓の畔に建つ いつくし園は花に彩られた日本の宿。料理は地元の素材を贅沢に使い、渓流に面した温泉と露天風呂は格別。平泉観光の拠点に最適です。




関連書籍


義経
一般的な義経記ではなく、司馬遼太郎の描きだす義経は、その時代背景と人間そのものを描写しています。土地を基礎とした新しい国家感を感じとっていた頼朝と、戦は上手いが、政治など理解できない義経との間に溝が広がっていく姿を、綿密な時代分析によって納得感が有る形で描写しています。



燃えよ剣
幕末の日本が経験した多くの戦いに参加し、最後まで戦い抜いた土方歳三の生涯を描いた、司馬遼太郎の歴史小説。宮古湾海戦の詳細な描写があります。

岩手県近隣の古城・古戦場


岩手県の古城 基礎情報

盛岡城 1598年
安土・桃山時代
南部信直

画像出所:wikipedia(CC継承 3.0)
盛岡藩南部氏の居城。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地で、現在の盛岡市中心部に築城された連郭式平山城である。


岩手県の古戦場 基礎情報

前九年の役
黄海柵の戦い
平安時代
1051年 - 1062年
安部氏と討伐に向かった源頼義・義家父子の戦い。源頼義・義家父子は大敗を喫した。マーカの位置は黄海(きのみ)合戦の看板がある黄海地区公民館


前九年の役
厨川柵の戦い
平安時代
1051年 - 1062年
源頼義・義家父子と、安部氏の戦い。前九年の役の最終決戦となり、安部氏は滅んだ。マーカの位置は厨川柵があったとされる天昌寺。この北東800m 程の北上川河畔に安部氏館遺蹟がある


衣川の戦い
平安時代
1189年
源義経が藤原氏に討たれた戦い。藤原秀衡は源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を立てて鎌倉に対抗しようとしたが病没した。後を継いだ泰衡は鎌倉の圧力に屈して、父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った戦い


九戸政実の乱
安土桃山時代
1591年
南部家家臣の九戸政実が南部家に対して挙兵した合戦。南部信直は、単独での討伐を諦め豊臣秀吉に支援を要請。豊臣秀次を総大将とする6万の軍勢が派遣され、鎮圧された。


戊辰戦争
宮古湾海戦
江戸時代
1868年 - 1869年
函館に籠る旧幕府軍が、函館攻撃のため北進してきた新政府軍の甲鉄艦を接舷斬り込みで奪取しようとし失敗した戦い。旧幕府軍は、軍艦回天を、函館からはるばる宮古まで派遣し、停泊中の甲鉄を奇襲した。この戦いには、旧新撰組の土方歳三や、後の連合艦隊司令長官の東郷平八郎なども参加している